日本100名城・続日本100名城の完全制覇を基本に、気ままな日本一周バイクの旅を行っています。
2021年5月14日(金)
緊急事態宣言の延長、加えて梅雨っぽい天気予報がここしばらく続くようで、このままではますます永久冬眠に近づく予感なこの日、最高のピーカンがやってきました。
前日の天気予報で情報キャッチ。
「あー外出てぇ、あーぶっ飛ばしてぇ」って衝動に掻き立てられて、不要不急のぶらり旅に出かけてしまいました。(すんません)
行先は滋賀県湖北の賤ケ岳。
羽柴秀吉と柴田勝家の決戦の地です。
一刻も早く外に出たくて、朝4時出発。笑
まずは毎度の休憩ポイントの滋賀県高島市まで、時速500kmでバイパスぶっ飛ばしです。(ウソです)
羽柴軍エリア
7時に、賤ケ岳リフト乗り場駐車場に到着。
リフト営業は9時からだったが、最初から乗る気はないのでスルー。
7時20分に登山開始で、朝イチの賤ケ岳眺望を独り占めにしてやろうと思ったけど…。
この後すぐに…またまたやらかしてしまいました。
この後、山の中腹くらいまでハリキッテ登って行き止まり。おーいっ笑
しゃあなし引き返し、再び登山口に帰って来た時はすでに1時間経過…。
すでに足キテるし、もう疲れました。笑
賤ケ岳砦
登山開始から1550m=1時間40分、9時過ぎにやっと山頂到着。(足が元気やったら30分で着ける。笑)
そろそろリフトに乗った1番客の方が上がって来る。
ホンマにアホ。笑
山頂にもうちょいで着くってとき、さっきのおじいちゃんが下山してきて、「やっと登ってきましたぁ」って言ったら「ご苦労さん」って言ってくれはりました。笑
賤ケ岳の合戦(1583年)をさかのぼる事10年前、1573年浅井家小谷城を攻める織田信長の本陣・虎御前山。
賤ケ岳の合戦から17年後に起きる関ヶ原の合戦。
時代の要衝が一望。
虎御前山には秀吉も勝家も攻め手として、一緒に陣取ってたんやね。
なんかすごいね。
少し右に目を凝らすと、琵琶湖が一望。
賤ケ岳合戦当時にはまだなかった彦根城。
代わりに、後に石田三成の居城になった佐和山城があった。
賤ケ岳砦から見る主要陣地跡
昨年6月に訪れた続日本100名城の玄蕃尾城(福井・滋賀県)。【越前・若狭】城めぐり
ここが大将・柴田勝家の本陣。
行市山砦に勝家の甥、猛将佐久間盛政。
別所山砦に後の加賀100万石の祖、前田利家が陣取る。
羽柴方は賤ケ岳砦に桑山重晴。
大岩山砦に茨木城主の中川清秀。
岩崎山砦に高槻城主キリシタン高山右近。
街道越えた向こう側、東野山砦に勇将堀秀政。
東野山砦と堂木山砦の間には、突貫工事の土塁や堀が作られて街道交通を遮断。(現在国道365線や北陸自動車道が通る交通の要所)
神明山砦、堂木山砦に秀吉の古参蜂須賀正勝、木村小隼人らが陣取り、東野山砦と結んで羽柴軍最前線となる。
佐久間盛政進軍~開戦~大岩山砦陥落
秀吉が岐阜城織田信孝を攻めに、戦場を離脱していることを知った柴田軍は、佐久間盛政が中入り(敵中深く攻め入る事)を敢行。
行市山砦から南下、湖畔に出て賤ケ岳砦の麓を通り抜け大岩山砦を奇襲、中川清秀を討ち取り大岩山砦を陥落させる。
これを見た岩崎山砦高山右近は、後方羽柴秀長の陣まで撤退。
秀吉帰陣~賤ケ岳砦攻坊戦
大岩山砦陥落、中川清秀討死の報を聞いた秀吉は、反転、大垣から50㎞の道のりを5時間で帰陣する。(美濃大返し)
賤ケ岳砦の桑山重晴は退却予定だったが、丹羽長秀が琵琶湖を渡って援軍に到着した事で応戦。
大岩山砦、岩崎山砦を手中にした佐久間盛政は、賤ケ岳砦攻略にも動いたが、戻ってきた秀吉軍と交戦状態になる。
奮戦する佐久間隊の攻略が難しいと考えた秀吉は、もう一方の賤ケ岳砦を攻略しようとする柴田勝政(佐久間盛政の弟)の隊へ、攻撃対象を変更する。
柴田勝政隊vs丹羽隊、桑山隊の賤ケ岳砦隊、これを佐久間隊と秀吉本軍が救援する形で最大激戦地へ。
そしてついに柴田勝政隊が崩れ、敗走が始まる。
前田利家戦線離脱~柴田勝政隊壊滅~佐久間盛政敗走
時刻を少し戻して、佐久間隊中入り行軍時、佐久間隊後方の守りを担い、別所山砦の前田利家隊が共に進軍。
堂木山砦、神明山砦と同じ稜線の茂山に駐屯、羽柴軍に睨みをきかす。
そして続き…敗走しだした柴田勝政隊は壊滅。
同じく秀吉軍の追撃受ける佐久間隊は、茂山の前田隊と合流しようとするが…なんと前田隊が早々戦線離脱し退却。
佐久間隊は孤立無援、散り散りに敗走してしまう。
柴田軍敗走~羽柴軍追撃~毛受兄弟殿軍~北ノ庄炎上
前田隊の戦線離脱、佐久間隊の敗退を見て、玄番尾城前衛の柴田軍諸将も退却を開始。
茂山に前田隊がいなくなった事で、堂木山砦、神明山砦の羽柴軍も追撃を開始。
多勢に無勢となり、柴田軍全体の敗走が始まる。
この合戦の3日後に、撤退した柴田勝家は居城北ノ庄城を囲まれて自刃。
北ノ庄城炎上で決着がつくんやけど、その前に毛受兄弟(めんじゅきょうだい)の活躍がありました。
毛受兄弟の活躍はのちほど。
これらの話を、賤ケ岳山頂でボランティアガイドをされている方の説明で、聞かせてもらいました。
実際の景観を見ながら、専門の方の話を聞かせてもらうと、めっちゃおもしろいですね。
歴史・合戦に興味がなくても、これだけの景観が楽しめるのは最高。
なおかつ歴史好きにはたまらない、戦場が一望できる立地はそうそうないですね。
今度はお弁当持ってきて、ゆっくりしよ。笑
賤ケ岳砦からムービー撮ったので、見てください。
→→→まさ旅wz MASAtabiwz
賤ケ岳を下山し、余呉湖の北へ移動、そしてぐるっと周回(6.8㎞/周)。
サイクリング、散策散歩、釣りなど、楽しんでる方々が居てはりました。
途中、きれいなお花畑を発見。
余呉湖北側からムービー撮ったので、見てください。
→→→まさ旅wz MASAtabiwz
余呉湖北サイド
余呉湖観光館でお昼ご飯を食べ、バイクはそのまま観光館駐車場でおやすみ。
今度は高山右近の岩崎山砦方面から、中川清秀のお墓・大岩山砦を目指して再び登山開始。
岩崎山砦跡
大岩山砦跡
中川清秀の墓
大岩山砦跡の細長い奥に、中川清秀のお墓がありました。
子孫が清秀100回忌に建立したそうです。
なので、それでももう340年近く経ってるんですね。
時刻13時前、今回の旅は、ここでいったん羽柴軍エリアは切り上げる事にしました。
この先2.4kmで再び賤ケ岳砦、そして激戦の地を歩いてみたかったのですが、柴田軍エリアも見ておきたかったので、次回もう一度このルートで、余呉湖時計回り佐久間盛政追っかけの旅をしてみたいと思います。
岩崎山砦から大岩山砦へ向かう山道は、最初ちょい勾配あって、後は割となだらかな道。
途中余呉湖へ抜ける案内板があったので、帰路はこちらで下ってみました。
余呉湖観光館の人にちょっと聞いてはいたんやけど、これがなかなか急峻。
佐久間盛政は、おそらくこの辺りを登って大岩山砦を奇襲している。
いっつも思うけど、ホンマにすごい体力の集まりやと思う。
ここ登って、まだ戦うやなんて…びっくりや。
柴田軍エリア
羽柴軍エリアで時間かかり過ぎて(90分ほどは自業自得)、押しまくり。
っていうより見どころ満載で、こりゃ1日はムリやった。笑
で次回の予習も兼ねて情報収集、そしてどうしても見ておきたかった毛受兄弟のお墓を訪ねてきました。
毛受兄弟の墓
ここ登って、余呉湖周回砦めぐりしたら15㎞くらいの登山になるような…。
今まで史上最長かも…汗汗汗…こりゃ小谷城よりもハード登山の日になるな。。。
予習しとって良かった。
覚悟して、よー寝てきます。笑
後記
昨年、東日本制覇に出かけた2日目に訪ねた玄番尾城。【越前・若狭】城めぐり
めっちゃ怖いトンネルくぐって、猿よーさん、クマにも出会ってビビりまくって登城した思い出があります。
その登城途中にあった行市山砦跡3.5kmの案内板。
今回の旅の情報を加えると、山の尾根、稜線で陣取っていることが、はっきりわかる。
勝家は山岳で迎え撃ちたかったんやろね。
黒→玄番尾城~行市山砦、約3.5km
青→毛受兄弟の墓、麓~行市山砦、約3.5km
この約7kmに主力が布陣している。
佐久間盛政が緑→黄→と動いて、大岩山砦、岩崎山砦を攻略。
続いて賤ケ岳砦に向かうも赤○激戦になり、再び黄→で退却・敗走していく。
東側から見た絵図なら、柴田軍の動きもわかりやすい。
ドローンとか使えたら、見え方変わって楽しいやろうなぁ。
今まで思ってた賤ケ岳合戦のイメージは、秀吉の神がかり的な大返しと佐久間盛政がちょっとやらかしたんかなって感じやったんやけど、今回の旅で全然変わりました。
ボランティアガイドさんに教えてもらった、討たれた中川清秀の息子と討った佐久間盛政の娘の話なんかもすごく良かったし、佐久間盛政のイメージがめっちゃアップしました。
次回来訪はハードな登山になりそうやけど、半分ビビりながら、めっちゃ楽しみです。