日本100名城・続日本100名城の完全制覇を基本に、気ままな日本一周バイクの旅を行っています。
2021年5月23日(日)
緊急事態宣言、そして梅雨入り。
バイク旅野郎にはバッテンが付く日が続く中、合間の好天予報キャッチに、またもや「あー外出てぇ、あーぶっ飛ばしてぇ」って病になってしまい、不要不急のぶらり旅に出かけてしまいました。(通算2回目、すんません。)
行先は、前週行った滋賀県湖北の賤ケ岳。
前回見れなかった羽柴秀吉と柴田勝家の決戦の地の続き、続☆賤ケ岳古戦場めぐりです。
前回の旅で見たいところは下見済み。
羽柴軍エリアの前回続き、賤ケ岳合戦名所をめぐる登山5.1kmと余呉湖周回4kmの計9.1km。
そして佐久間盛政の行市山砦を中心に、柴田軍エリアをめぐる行市山登山6.7km。
登山2回の15km超えの行程に、「体力持つのか?」と心配やけど、時間切れにならないよう朝3時に出発。(もはや朝ではなく深夜。笑)
まずは毎度の休憩ポイントの滋賀県高島市まで、原チャリやんちゃ少年たちを時速300kmでぶっちぎって、時速500kmでバイパスぶっ飛ばしで爽快にスタートしてきました。(ウソです。)
続☆羽柴軍エリア
前回は大岩山砦・中川清秀のお墓まで見学したけど、今回は中川清秀のお墓から賤ケ岳砦、賤ケ岳砦から湖畔に至る秀吉軍と佐久間隊・柴田勝政隊の最大激戦地をめぐってきました。
前回急峻な道で下山、帰っていったんですが、今回はその道を登ってみました。
おそらく佐久間隊が、最初大岩山砦攻めに攻め登った道。
ハードなスタートです。(佐久間隊すごい!)
前回は賤ケ岳南側の登山ルートやったけれど、今回は東側から登り、北側、湖畔を目指すルートで下山。
このルートが、秀吉軍追撃の最大激戦地の始まり。
この横の展望台から、琵琶湖と余呉湖のムービー撮ったので、見てください。
→→→まさ旅wz MASAtabiwz
佐久間盛政は、上記地図の現在地より右の権現峠を通って逃亡、捕らえられて、京都で命を絶たれた。
茂山砦で羽柴軍に睨みを利かしていた前田利家隊も、秀吉の凄まじい速さの帰陣がなかったら撤退したやろうか?
佐久間盛政の中入り(敵中深く攻め入る事)は結果失敗に終わったけど、紙一重やったと思う。
その勇気と武将根性には脱帽、よくがんばりました。
続☆柴田軍エリア
バイクを停めていた余呉湖観光館に戻って少しの休憩、行市山登山口がある毛受の森に移動。
ここから柴田軍主力が陣取った行市山の稜線・山頂を目指す、10時スタート2回目の登山開始です。
金森長近陣・橡谷山砦跡(とちたにやまとりであと)
徳山五兵衛則秀、毛受勝助家照兄弟陣・林谷山砦跡
登山開始18分、橡谷山砦から山頂と逆方向に300m。
徳山五兵衛則秀、毛受勝助家照兄弟が陣取った、林谷山砦跡到着です。
入口にわずかな土塁跡がありました。
原彦次郎長頼陣・中谷山砦跡
登山開始37分、中谷山山頂368.39mに到着。
原彦次郎長頼が陣取った中谷山砦跡です。
最初、羽柴軍は黄○最初陣地の天神山・茶臼山に砦を築いたが、佐久間盛政が砦を見下ろす行市山に砦を築いたため、両砦を放棄し堂木山砦まで下がって陣取った。
堂木山砦の向こう、写真右の方向に岩崎山砦・大岩山砦・余呉湖・賤ケ岳。
羽柴秀長陣・田上山砦の右サイドに木之本の町、左サイドに見える山は浅井家の小谷城跡。
前田利家、利長親子陣・別所山砦跡
登山開始ちょうど1時間、後の加賀100万石の祖、前田利家・利長親子が陣取った別所山砦に到着しました。
ここまでの砦跡とは違い、土塁の形もはっきり、規模も大きく、この行市山登山の中でいちばん見応えのある砦、場所でした。
別所山砦を後に、いよいよラストスパート。
足けっこうきてるけど、もうひと踏ん張り。
せやけどこの山、なにがしんどいて、必ず砦の跡は下っていくんやね。笑
せっかく登って先あるんやから下らんといてくれーって思うけど…。笑
防御としてはひとつの稜線上、山と山の間が堀切のような役目になってるんやから…当然か。笑
すごい陣地・陣形です。
佐久間盛政陣・行市山砦跡
よっしゃー着いたどーって、説明板現れるが…どこ?
行市山山頂
行市山砦跡は荒れ放題で草ボーボー、わずかに残る土塁と堀のみで、少し残念な結果。
山頂には開けた場所があって絶景が楽しめるが、期待していた戦場や陣地跡は反対方向で望めず。
勝家の本陣・玄番尾城跡は見えると思っていたんやけど、これまた方向違いで望めず…これまた残念な結果でした。
昔は木が伐採されていて、もっと見通しが効いていたそうです。
そりゃそうやろなって思います。
でないと自陣も敵陣も、それどころかどこ歩いてるかもわからんもんなぁ。笑
行市山砦跡は登山者か、マニアックな歴史好きが行くところやなって思いました。笑
玄番尾城~行市山~茂山~余呉湖賤ケ岳山本山歩道で長浜まで登山完歩とかすると、もう歴史博士&山大好き人間ですね。笑
柴田勝家が北ノ庄城(現在の福井市)に入る以前、現在の国道365線と北陸自動車道のような道はなく、玄番尾城~行市山~茂山~現在の余呉湖賤ケ岳山本山歩道など、人ひとりが通れるほどの幅の山道稜線が、越前と近江(福井県と滋賀県)を結ぶ街道だったそうです。
越前側は玄番尾城(柳ケ瀬)辺りまで豪雪地帯で、冬場はほぼ通れず。
それを柴田勝家が、主君織田信長がいる近江安土城までの道を便利にするために、街道を作ったんですね。
この上記2枚のグーグルマップと現地で実際山上から見比べてると、ほとほとすごいなぁって思ってしまいます。
後記
大規模な山全体を陣城にしたような布陣は合戦の舞台にはならず、余呉湖周辺で合戦の帰趨が決してしまったんですね。
それがよくわかりました。
柴田勝家にしてみれば、描いていた合戦段取りではなかったのかもしれませんね。
行市山から下山の折、やっぱり山頂手前800~1000mの場所で苦戦しました。
めっちゃ滑るし、あぶない。
そこらにある木を2本、杖替わりにして、4足歩行でなんとかクリアーしました。
もうヒザはカクカク(ガクガクの一歩手前、笑)。
けっこうキテましたが、往復4時間、14時に無事下山できました。
15㎞超え山道踏破、バイクに座って運転することが休憩に感じます。笑
今年に入って3回目の登山。
えらいもんで、やっぱり慣れるんですね。
1か月前の八上城、今年の初登山のときは、1㎞の登山でちょー息切れ、翌日ちょー筋肉痛でした。笑
もちろん筋肉痛にはなってるんですが、翌日ゴルフの練習ができる程度。
オレの足も復活してきました。笑
やっと体も冬眠明け、本格旅が待ち遠しいどー。笑